創業20年、社員60名の理容業での、社員の背任行為にまつわる対処事例です。ある日、社長から慌てた様子で電話がかかってきました。店長からクビにしたい社員がいる、と相談があったとのことでした。
B店長が不在の17時以降、社員C男は、新たな予約が取れないように偽装し、20時までの勤務にも関わらず、3時間前の早退を繰り返していました。また、3時間分の利益損失の累計は、判明しているだけでも数十万円に及ぶ見込みです。
これは、背任行為はもとより、就業規則上の服務規律違反、虚偽報告に該当します。店長は、再三注意しC男の態度改善を試みましたが、変化が見られませんでした。この間、社長報告をしていなかったため損害が拡大してしまったのです。
労働基準法に則って進めるならば、就業規則の懲戒規程に沿って、始末書の提出と指導から始めます。減給、出勤停止と段階を踏み、最終的には退職へ導くところです。ただ、A社のような人材不足に悩む中小企業では、人件費が重くのしかかることが問題です。採用にも時間を要するため、早期に人材の入れ替えを図る方が適策となります。
協議の結果、次の対策を打つことにしました。➀C男には退職勧奨を行うが、背任行為であるため自己都合とし、退職割増金は支給しない。②損害賠償請求までは行わないが、社会保険料の会社負担を減らせるように、月内の中途退職を要求する。③退職合意書を締結し、債権債務が残らないよう労使間で確認を行う。
労使問題では、特に退職に関して揉める場面も少なくありません。しかし、本人も背任行為であることを理解しており、すんなりと退職合意書への記名・押印に至りホッとしました。
課題として残ったのは、➀シフト上の労務管理に漏れがあること、②B店長が報告義務を怠ったことです。➀はシステム上の変更により対応可能ですが、問題は②の報告義務を怠った背景です。ここ半年間、社長は新規開店に向けて多忙な日々を送っていました。B店長に任せきりで、月1回の定期報告会の開催をとりやめていたことが主な要因と考えられます。社長は、月次報告会を継続する重要性を理解し、再開することを約束しました。
今回の交渉においてのポイントは、経営側の感情コントロールでした。社長もB店長も怒り心頭ではありましたが、C男との面談時は堪えていました。交渉ごとの鉄則は、キレたら負けです。社長は感情を抑えて冷静に対処することの大切を、経験から身に染みて知っていたのでしょう。自身も店舗への目配りが足りなかったと反省し、店長を責めなかったことも幸いしました。
C男による損失額は、把握できているだけで数十万円です。詳しく調査すれば、もっと大きな額だと想定されましたが、それはしませんでした。もし怒りに任せて、C男への損失額の請求が最大の目的となり、正確な金額の把握に時間を割いていたら、湧き上がる感情を抑えられず、冷静でいられなくなっていたことでしょう。
社長が、優先すべきは今後の対策を講じること、と良く分かっていて理性的でした。おかげで、問題発覚から解決までの流れがスムーズでした。こういった対応を、B店長をはじめとする幹部社員はよく見ているものです。負の感情を引きずらず、常に前を向いている社長の姿勢は、会社全体に明るい空気を波及させています。
第一法規『Case&Advice労働保険Navi 2024年3月号』拙著コラムより転載